ならそれでいいです

そろそろ優勝したい

飛行機の手触り

 その飛行機は窓の外で静止していた。

 

 久々の休日だった。今月に入ってからずっと仕事に追われていたので、目覚ましをセットしなくてもいい朝というものがこんなにもありがたいとは思わなかった。前日の夜一人で二日酔いにならない程度の飲酒をして、昼前までのんびりと眠り、目覚めると軽く伸びをしつつ一日の予定を考えながらカーテンを開けた。そこに飛行機がいた。

 それはヘリや軽飛行機などではなく、大型旅客機だった。少し薄汚れて、それでもまだ白の範疇にとどまっている機体の鼻がこの部屋に向けられていた。そして、空中に浮かんだままピタリと止まっている。僕が出張や旅行でよく乗ったことのある機体にも見えるけれど、実際のところ飛行機なんて僕には全て同じに見えるような気もする。機体があまりにも近すぎるから側部に書かれているはずの航空会社のロゴも確認出来ず、この飛行機の身元を推理するのは不可能に思えた。

 なぜ、飛行機なのだろう。なぜ、こんな場所にいるのだろう。都心を少し外れたところにある七階建てマンションの最上階。確かに落ちたらひとたまりもない高さではあるが、飛行機が飛んでいていい高さではない。仮にこの低空飛行には目を瞑ったとして、落ちもせず飛びもせず、ただ止まり続けているのはどういうわけなのだろうか。

 操縦席には誰も座っていないように見える。いやに静かだ。なんだか僕と飛行機の周囲だけが切り取られてしまっているかのような、強烈な違和感。それとも昼間の住宅地なんていうのは、どこもこれぐらい静かなものなのだろうか。自分の家の静けさの度合なんてものについて、僕は今まで考えたことがなかった。

 

 寝起きで少し喉が渇くので、水分を求めてリビングへ向かうことにした。牛乳でも飲んで、少し頭を落ち着けてから飛行機のことを考えようと思った。 

 リビングでは美代が、ノートパソコンの前に座って頭を悩ませていた。元々Webメディアの編集を仕事にしていた彼女は、去年の暮れにフリーライターに転じてからはそのほとんどの時間を家で過ごすようになっていた。

 僕はキッチンの奥にある冷蔵庫を開けて、牛乳パックを取り出した。残りが少ないようだったので、コップに注がずパックから直接喉に流し込んだ。喉の渇きはなくなったけれど、飛行機のことはなにも分からないままだった。

 飛行機が街中で停まっているなんておかしな現象なら、ニュースにでもなっているかもしれない。そう考えた僕はスマートフォンを取り出して、いくつかのニュースサイトを立ち上げてみた。けれど、どのサイトも真っ白いページが表示されるだけで、一向に立ち上がる気配がない。端末か電波のどちらかに不具合が生じているのだろうか。諦めた僕は部屋着のポケットに物言わぬ電話機をしまった。

 

「ねえ、あなた昨日私が寝てからテレビを観た?」

 不意に、美代が僕に尋ねた。

「いいや、観てないよ。昨日は帰ってきたら部屋で少し飲んで、そのまま寝たんだ」

「ふうん。なんだか朝からテレビの調子が悪いのよ。故障かしら」

 最後はほとんど独り言のようにそう言って、美代はまたパソコンと睨み合いを始めた。テレビの不具合にはそこまでの関心は無いようだった。薄く聞こえる鼻歌が、軽快に叩かれるキーボードの音と混ざりあっていく。

 

 離婚が決まってからというもの、美代はすっかり穏やかになった。というよりは、元の穏やかな美代に戻ったという表現が正しいのだろうか。もしかしたら美代も僕に対して同じことを思っているのかもしれない。ここ何年か、僕たちは穏やかではなかった。

 数年間に及ぶ罵り合い、憎み合いを経て、僕たちはすっかり燃え尽きてしまった。だけど、燃え尽きたはずの身体からときどき燻りや煙が見え隠れして、それが僕を困惑させた。

 僕の人間の部分はまだ美代と一緒にいてもいいかもしれないと言っているのだけど、僕の動物の部分はこの雌から得られるだけの愛はもらい尽くしたと言っている。僕らの愛の送受信はとっくにその季節を終えていて、今ではただダシガラになった情が二つ転がっているだけだ。

 その二つが腐ってしまわないうちに別れようというのが、僕と美代の出した結論だった。でも、この問題は二人だけで解決してしまっていいものではない。僕は本棚の上に置かれたぬいぐるみの群れを見た。その中に飛行機のぬいぐるみを見つけると、その背を掴んで持ち上げてやる。もこもことした飛行だか滑空だかが、僕の目線の高さで始まった。確かこれは、三年前家族で僕の実家に帰省したときに乗った飛行機で卓也がもらったものだ。子供用の機内食と一緒に配られていた記憶がある。あの日二時間弱のフライトの間五歳児の退屈を紛らわせてくれたこの一機は、その後すぐに飽きられてこうして今日まで忘れられていた。

 

「卓也は今日もサッカー?」

「ここのところ土日はずっとそうよ。今度低学年の子たちだけの大会があるんですって」

 行けたら観に行こうかな、と口に出そうとして、やめた。小学校の入学式も、この間の運動会も、約束だけして結局行けなかった。平謝りの僕に対して卓也はあまり気にしていないような素振りを見せていたけど、どうしても幼い我が子が無理をしているようにしか見えなかった。無理をさせている僕が言うことではないかもしれないが、優しい子なのだ。その優しさが僕と美代のどちらに似たのかは、まだ幼すぎることもあってよく分からないけれど。

 卓也は、僕らを恨むのだろうか。寂しいと言って泣くのだろうか。それともまた無理をして、なんでもないような顔をするのだろうか。僕はぬいぐるみに顔を近づけて、じっと見つめた。安っぽい水色の布で表現されている客席や操縦席の窓の中は、当然ながら窺い知れない。ある意味それは、僕の部屋の外にいる飛行機を忠実に再現していると言えた。

 

 「ねえ」

 僕は美代に語りかけた。美代はパソコンに向かったまま、「なあに?」と軽い言葉を返してきた。

「僕は良い父親でも、良い夫でも、良い男でもなかったね」

 どうしてこんな言葉が出てくるのか、自分でも分からなかった。ただ、この言葉を紡いでいるとき、僕の脳裏には飛行機の姿が浮かび続けていた。美代はいつの間にか顔を上げて、そして僕の言葉に心底驚いたというような顔を作ったあと、そっと微笑んだ。

 

「ええ、そうね。だけどそんなのお互い様でしょ」

 その表情の優しさに、僕はいろいろなことを思い出した。美代と過ごした時間の中にあった、きらめきや、くすみや、オーロラや、シミといったいろいろを。それから僕と美代の間には確かに愛が、もしくは愛のようなものがあったのだということを、ようやく明確に思い出せたのだった。それはあたたかな回顧だった。

 飛行機のぬいぐるみを元の場所に戻した。「タバコを吸ってくるよ」と言って、自分の部屋の扉を開けた。為すべきことが全て分かったような気分で、嬉しくて嬉しくて仕方がなくなってくる。

 

 部屋の窓からベランダに出て、飛行機に近づいた。その鼻の先端をそっと撫でた。

 それはとてもザラザラしていて、僕の知らない手触りだった。

 

 

 

 

 

 

『ロッタレイン』の第一巻、やっと出ましたね。

ロッタレイン 1 (ビッグコミックススペシャル)

ロッタレイン 1 (ビッグコミックススペシャル)

 

もう「いつ単行本が出るの?」と死ぬほど言いまくってた漫画なんですよ。月刊誌で連載始まってから二年とか経ってて、もう単行本分のストックなんて余裕であるはずなのに単行本出る気配なくて。で、そんなこんなで連載終わるし、なんなら掲載誌のヒバナ自体刊行終わっちゃうし(ほとんどの作品がマンガワン移行なのほんとに悲しい)で。おいおいおいおいって思ってたんですけど、ヒバナ刊行終了のお知らせと同時にひっそり単行本が出ることが告知されててガッツポーズ作りました。

 

序盤の内容を一言で表すと「唯一の肉親だった母親を亡くし、職場でめっちゃパワハラを受けてるバス運転手の男(三十歳)が、パワハラ上司と恋人が浮気している現場を目撃したことをきっかけに頭がバグって職務中に事故を起こし骨折&入院し、その病院にかつて自分と母を捨てた父が現れ、怪我が治るまでという約束で父とその内縁の妻(元浮気相手)が暮らすに新潟の家に身を寄せることになり、その家の中学一年生の娘で勃起する」みたいな感じです。ごめんなさい、俺の一言めっちゃ長いんです。

まあとにかく最悪(褒め言葉です)なんですよ。死ぬほどどん底の状態から始まってそこから再生していく物語なのかなと思ったら、新天地も全然心休まる場所じゃないし。とにかく嫌な方嫌な方に話が転がっていくし。

というかそもそも登場人物に「良い人間」がほとんどいないです。「人間なんて基本自分が可愛くて他人は二の次だし、梅干し見たら唾出てポルノ見たら勃起するでしょ?」みたいなことを丁寧に丁寧に、そして当たりまえのことのよう積み重ねられていくんで、もう読んでるこっちはただただ無抵抗に納得するしかないんですよね。同作者の『甘い水』だとそのへんが結構デフォルメされてた気がするんですが、もうここではひたすら剥きだしです。

 

主人公なんかは特にその象徴みたいな造形で、めちゃくちゃ不幸な目にあってるのに全然応援する気にならないです。

六話の最後とかは特に顕著ですね。物語上とても大きな出来事が起こるんですが、主人公だけがその場の他の人物と全然違う方向を向いてるというか、目の前で起きていることに対してというよりそれによって生じる面倒事への不安とか、あとはその場の空気に対する気まずさとか、そういうものが先にあるということがありありと伝わってくる名シーンです。

 八話で主人公が暴走するんですけど、そことか単純に引きますからね。「なにやってんだこいつ……」みたいな。でもって本来全く共感できないはずなのに、なんだか我がことのように恥ずかしくなってくるみたいな。ほんとになんなんですかねこれ。

 

で、この漫画が凄いのはこんだけ辛くて痛い要素を孕みつつめちゃくちゃ面白いことです。読んでる間ずっと「勘弁してくれ……」って唸ってるような状態なんですが、それでもページ捲る手が止まらなくて。

それは「これからどんだけ最悪になるのか」っていう怖いもの見たさみたいな部分もあるかもしれないんですが、それよりもまず単純に物語の推進力が半端じゃないからなんですよね。あと作者の表現技術・絵の力が本当に凄いです。上述した六話のシーンとかセリフ無しですからね。それ以外にも思わず叫んでしまうようなコマとページがたくさんありました。

それからヒロインの初穂が本当に魅力的です。主人公が勃起するのも分かるな……という場面がいくつもあります。初穂の顔が近すぎる表紙も最初見たときは「近いな……」という感じだったんですが、一巻読み終えた今では「そうなるよな!」という気持ちです。まあそれでも近いことに変わりはないんですけど。

で、その魅力の描き方も本当に絶妙。いやらしくないギリギリのラインなんですよね。最近思春期辺りの男女が低い貞操観念と強い性欲の赴くままにセックスして事後一句読む、みたいな漫画をよく見かけるんですが、そういう漫画とかその漫画の中の一コマをTwitterに貼って「私だ……」とか逆に「いやセックスってこんな大層なもんじゃないでしょ……」とかほざいてる下半身以外の優勝方法を知らないブス(とそのブスにDM送ることと口元隠して自撮りすること以外趣味がないバカ)とかを薙ぎ倒すパワーがあるなと思いました。また戦争仕掛けちゃった。

 

まあとにかくどう転んでも最悪、という感じなんですが果たして物語はどういう展開を迎えるんでしょうか。来月発売の二巻、そして再来月発売の第三巻が待ち遠しくてしょうがないです。

あと作者の過去作がことごとく絶版で入手困難なので、これが爆売れして復刊とかされたら良いのになと思います。 

 

だいたいこんな感じでーす。

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望む姿で生きたいだけなのに

 夏休みが始まって一週間が経った日の昼下がり。友人の畑野の家を訪れた俺を出迎えたのは、銀色の球体だった。

 それは完璧な球状で、そして少しだけ浮遊していた。直径はだいたい一メートルほどだろうか。色は確かに銀色なのだがまぶしく光っているわけではなく、逆に周囲の光を吸い込んで重たい重たい輝きを形成していた。

 最初は部屋を間違ったのかと思ったが、家具や適当に読み捨てられた本などのこの球体を除いた部屋の全体が、何度も訪れている畑野の家であることを物語っている。そして、この部屋に人間は俺一人しかいなかった。俺はもう一度球体を見た。

 

「おう、来たか。麦茶飲むか?まあ俺注げないんだけどさ」

 球体から聞こえた声は楽し気だった。少し胴鳴りのようなものが含まれてはいるが、間違いなく聞き覚えのある畑野の声だった。なんとなくそんな予感はしていたが、この球体は畑野なのだ。

「畑野、お前どうしたんだこれ」

 俺は雑にスニーカーを脱ぎ捨てると、冷蔵庫から麦茶の入ったボトル取り出し、百均のものと思われるマグカップに注いで一気に飲み干した。美味い。やっぱり夏は麦茶に限るな、などとひとりごちながら二杯目を注ぐ。

 

「いやあ、なんて説明したもんかな。ほら、今年の夏って、めちゃくちゃに暑かっただろ」

 確かに、ここ数日は猛暑日が続いている。俺の家から畑野の家までは自転車で十分もかからないというのに、その移動だけで俺の額や首筋にはかなりの量の汗が浮かんでいた。

 

「だから哺乳類でいるのがめんどくさくなっちゃってさあ。金属はいいよ、楽で」 

 なるほど、確かに畑野の説明は筋が通っているように見えた。俺だってこの暑さには正直うんざりしているし、出来ることなら球体になってしまいたい。球体は暑さにも寒さに強い。

 だが、恐らく畑野は嘘を言っている。畑野が大学を出たあとの進路に悩んでいることや、両親と上手くいっていないこと、バイト先で人間関係のトラブルに巻き込まれていることなどを、俺は畑野の恋人の百合ちゃんから聞き及んでいる。今回の変身は、そのあたりに思い悩んでのことなのかもしれない。球体というのは煩わしさとは無縁の、非常に楽なものだから。

 

「話は分かったけど、これからどうすんだ?大学とか、生活とか」

 俺は畑野の言葉を信じたフリをして会話を続けることにした。俺が畑野の苦悩を知っているということを本人に伝えるのは野暮だと思ったからだ。実際のところがどうであれ、本人が暑さのせいと言うのなら、暑さのせいなのだ。

「学校は退学する。部屋も引き払って、山の中にでも籠って暮らすよ。球体なら食事も睡眠もいらないしな」

 畑野は本当にそう考えているのだろうか?少なくとも、声音は真剣そのものだ。

 

「家族はどうするんだ?」

「俺がいなくなっても何も思わないような連中さ」

 どうやら畑野と家族の仲は、百合ちゃんから聞いていた以上に悪いようだ。吐き捨てるような物言いと、発言と同時に重さを増す畑野球体の輝きを見ると、そう思わずにはいられない。

 

「じゃあ、百合ちゃんはどうする」

 俺がそう口にした瞬間、球体の雰囲気が変わったのが分かった。真剣さはそのままに、だけど少し寂しそうな声音で、畑野は言った。

「お前に任せる。百合は、お前が好きなんだよ」

 

 しばらく俺も畑野も黙ったままだった。俺は何を言えば良いのか分からず、ただじっと畑野の言葉を待った。畑野が何を考えてるのか、表情がないので全く読み取れない。球体というのは本当に楽なのだ。無限に思える時間の後、ようやく畑野が話し始めた。

「最近の百合がお前を見てるときの顔、俺が百合を見てるときの顔と全く同じなんだ。あの、優しい熱が頬と目の間に溜まっていくような顔。あんなの見せられたらさすがに感づくさ。一応、これでも二年以上あいつと一緒にいるんだから」

 俺は、まだ黙ったままだった。言うべきことと、言ってはいけないことが頭の中をグルグルと回って、一体どれを掴みとって畑野に伝えるべきかちっとも分からなかった。

 

「なあ、お前になら百合を任せられる。別に恨んでなんかいないさ。球体なんだしな」

「畑野、違うんだ。俺……」

「こんなことお願いして悪いと思ってる。けどお前にしか頼めないことなんだ。百合も最初は驚くと思うけど、きっと納得してくれるさ」

「畑野。俺、知ってたんだよ。お前に言われなくても、百合ちゃんの気持ち」

 

 最初は本当にただの相談だった。畑野くんが悩んでいるみたいなのに力になれない。彼女なのに情けない。呼び出された安居酒屋のカウンターでそう言って落ち込む百合ちゃんを、俺は色々な言葉で慰め、励ました。

 何度かそういった機会があったのだけど、たしかそれは五回目のときに起こったのだと思う。その晩、畑野と大きな喧嘩をしたのだと言っていた百合ちゃんは、店を出るやいなや俺の身体に寄りかかり、「私、疲れちゃいました。少し休んでいきませんか?」と甘えたような声で囁いた。俺の理性は少し震えたが、なんとか押しとどまって彼女一人をタクシーに乗せて帰らせた。

 それが一週間ほど前のことで、その日を境に百合ちゃんは俺への好意を隠さなくなった。毎日俺に会いたがったし、「畑野くんと別れたら付き合ってくれますか?」などと直接的な物言いもするようになった。俺はそれらへの返答をはぐらかし続けた。そして今日、畑野は球体になった。

 

 結局、俺は畑野に全てを打ち明けることになってしまった。他にどうしようもないように思えた。球体は相変わらず重たく輝くだけだった。

「そうか、そうだったんだな……」俺の言葉を噛みしめるようにして、畑野はそう呟いた。

「すまん、畑野。なかなか言い出せなくて」

 

「いいんだよ。気にするな。というか好都合じゃないか。俺のことなんか気にせず、百合の気持ちに応えてやってくれよ」

「畑野……」俺は心底気まずそうな、申し訳なさそうな声を作った。「俺、四角形の女の子はちょっと……」

 百合ちゃんが四角形になったのは、去年の秋のことだ。四角形とは言っても畑野の球体ほど完全なものではなく、立方体に手足が生えているような姿ではあるが。ストレスのせいだと本人は言っていた。

 

「そうなのか……」

「すまん……」

「いや、お前が謝ることじゃないさ。けど、どうしたもんかなあ」

「それなんだけど」仕切り直すように、俺は大げさな咳払いをした。

 

「まず、お前は百合ちゃんと話し合うべきだと思う。元々俺に気持ちが向いてたのだって、お前との喧嘩でヤケになったからみたいなところもあるだろうし。その辺りを確認しないで関係を終わらせるのは、百合ちゃんにも失礼だよ」

 実際、俺と百合ちゃんが二人で会っていたのは本来畑野のためだったのだ。畑野の役に立ちたいと言っていた彼女の気持ちを俺だって信じたい。

 

「俺たち、まだやり直せるのかなあ」畑野の声は、泣いているようにも聞こえた。

「それも含めて、確かめないのはただの逃げだと思うぜ。いいじゃないか、仮に振られても、球体なら平気だろ」俺は半ば無理矢理に笑顔を作ってそう言った。

「それで、球体のまま山に籠るか、人間に戻るか、それとも百合ちゃんとおそろいの四角形になるかを決めればいいさ」今度はようやく自然な笑顔で言って、球体になってから初めて畑野の身体をさするようにして触った。球体は金属特有の鈍い冷気を帯びていた。

 

「いや、それなんだが……」畑野は少し困ったような声を出した。「球体になってから、変身の仕方が分からなくなってしまったんだよな」

 ということは、元に戻る方法も分からないということか。何か手立てはないものだろうか。俺は少し考え、そして一つの思い付きと共に大げさに手を打った。

「そうだ、球体病院で検査を受けよう。何か薬もあるかもしれん」

「そうか……そうだな。そうしよう」俺の提案に畑野が乗った。確かここから歩いて行ける範囲に、そこそこ大きな球体病院があったはずだ。

 

 病院までの移動は、球体が往来を行くのはいたずらに注目を集めるという畑野の意見を聞き入れ、借りてきたリヤカーに畑野を載せて運ぶフリをすることにした。畑野は浮遊しているため重さは感じないのだが、それがなんだか逆に悲しかった。

 球体病院で事情を説明すると、畑野は検査入院をすることになった。変身によって生じる身体の変化には個人差があるため、数日間かけて慎重に検査をする必要があるらしい。「百合には検査が終わってから話すよ」そう言って、畑野は奥の病室に入っていった。

 

 それから数日後、畑野から一通の手紙が届いた。宛名は俺と百合ちゃんの連名だった。

 看護師に口述筆記で書いてもらったというその手紙には、「検査の結果、自分の身体は銀ではなく『土産物屋に売っている竜が剣に絡みついているキーホルダーの素』で出来ていることが分かり、『土産物屋に売っている竜が剣に絡みついているキーホルダーの素』から人間や他の図形に変身することは非常に難しいことも判明した。それを受け入れ、今後は『土産物屋に売っている竜が剣に絡みついているキーホルダーの素』としての人生を送ろうと思う。手始めに全国の土産物屋を巡るので、しばらく会えそうにないが心配しないでくれ」と書かれていた。

「返事なんか書かなくて良いんじゃない?」と、隣で一緒に読んでいた百合ちゃんが笑った。

 

 

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だいたいこんな感じでーす。

戦車のいない九月が来る

 先週、戦車と散歩に出たのですが、キャタピラ部からきゅららきゅららと、今まで聞いたことのないような音が鳴っていて、あれおかしいなと思い、油を差そうと考えたものの、あいにく家には質のよいものがなく(食卓の塩は岩塩なのですけれど?)、散歩の道順を変えて、『デレレッポ・チチパ』に行くことにしました。

 その日の朝食を反芻しながら歩くことが、我々の散歩の流儀であり(あなたの宗教の神様はあなたです)、その日はジャーマンポテトとカプレーゼで、それはドイツで作られて、イタリアで三角形になった(お湯につけたら戻りました)、そんな戦車に対しての私なりの気遣いです。でした。変形。

  『デレレッポ・チチパ』は吉祥寺駅前にある賓片蕗(ひんぴらふき)段落に身を横たえて埋没し、侵入した先にある戦車店(と私の視点からは解釈できる)で、そんな面倒なことをしなくとも、駱駝に乗ってくればすぐ着く(ふたこぶ駱駝のお客様限定)のですが、私は駱駝を持っておらず(戦車は持っていますが、意外なことに戦車は駱駝ではない。昭和は良かった)、そのためこのようになります。

 

 到着は到着で、出発は出発(今年の恵方はキス・キス・キス)ですが、問題はその道程にあり、戦車のキャタピラは井の頭公園で、散歩中の人類を、766人轢き殺し(目視した範囲)、多方面から遺憾の意が、出たり入ったりしたので、私も出られたり入られたりしたということになります(違ったら教えてください)。

 他にも100匹の犬(101匹目がワンちゃんです)といくつかの八百比丘尼も轢殺したのですが、鳩、鳩、鳩は無敵なので、どうにもなりませんでした(鳩はただの平和の象徴ですが、鳩、鳩、鳩となると無敵なので無理です。戦車は所詮戦車)。

 あとは猫、のんきに道端横たわる猫のまつ毛、いやその生え際の実質的には頬の、その猫の額ほどの頬(額とは?頬とは?)の、入り組んだ毛に住み着くノミの、その身体にわらわらと生えた何本かの足の、生み出し生み出される健気なジャンプ力が怖い(怖いので戦車に無理を言って一発撃ってもらうと、あたりはすっかり静かになりました。いつまでもいつまでも静かでした)。

 

 ともかく、避けようのなく=責任もない轢殺の果て、『デレレッポ・チチパ』は今日も存在、その事実に打ち震えながら営業し、店主の(・∀ ・)は初代プレステ時代のFFキャラぐらいのポリゴン度で、にこやかに笑っていました。

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   ↑参考資料(画像は開発中のものです)

 (・∀ ・)は(・∀ ・)であり、( ・∀・)ではないため、その差異に我々は細心の注意を払う必要があり(有史以来、前者はまたんき、後者はモララーと呼ばれていました)、間違うと以降の朝食が「泉こなた」「おがくず」「すあま」の三択のみとなってしまい、「泉こなた」を選ぶとその回数分彼女が家に住み着くことになり、それは延々堆積するのですが、稀にCVが平野綾ではなく、博多大吉声の「泉こなた」が出てくることがあり、そうすると連鎖反応で全て消えます。

「この前渋谷でもこのお店を見かけましたがあれは?」「あれもこれです。『デレレッポ・チチパ』は偏在するので」「支店ということですか?」「違います。偏在しているだけです。偏在店が点々、です」「なるほど」「わかりましたか?」「いいえ全く」「アハハハ・ハハ。偏在店にも是非お越しください、ときどき展示もやってますので。偏在展を」「はあ」「それから『デレレッポ・チチパ』について一冊の本にまとめたものが来月出版されます。いわゆるひとつの……」「偏在典ですか」「コーラです」

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 (・∀ ・)との会話は無益を極め、苛立ちと同時に酷く喉が渇いたので、私はさっさと要件を済ませることにしました(この間ずっとどこかでピチョ、ポチョ、チョピ、と音がしており、最初は雨漏りかなと思ったのですが、あとから確認したら木星から漏れ出てワープした宇宙麦茶でした)。

  私は戦車から異音がすることと、劣っていることと変わっていることは違うということを(・∀ ・)に伝え(概念の話をすると(・∀ ・)は喜び、割引をしてくれるのです)、それを聞いた彼(あるいは彼女、あるいはインターネット)は戦車の全体をじっくりと観察し始めました。

 そうしてしばらくして、彼の口から出た言葉は、私を酷く落胆させるもので、それはつまり戦車の異常は油差し程度では治らず、更に言うとその異常は非常に重篤で、そう遠くないうちに戦車は動かなくなってしまうということであり、私はもちろんそれを信じたくはありませんでしたが、殊戦車に於いて(・∀ ・)以上の目利きなどいませんから、私に出来ることは、静かに、穏やかに、今目の前に突如現れた事実を受け入れること、ただそれだけでした。

 私の落胆を見て、(・∀ ・)は「簡単な点検なので、料金は結構です」と言ってくれましたが、私はそれを受け入れず、半ば叩きつけるように『グイン・サーガ24巻』をレジに置き、(・∀ ・)の「装備していくかい?」の声を無視して、戦車と共に店を出ました(退店時、戦車が出入り口に引っかかり、『デレレッポ・チチパ』の残機は2まで減りましたが、『グイン・サーガ24巻』を支払ったので大丈夫です)。

 

 肩を落として、静かな、本当に静かな井の頭公園を行く私の耳には、たしかに戦車から漏れ出る異音が聞こえていて、それは私をとても悲しくさせましたが、井の頭自然文化園の入場門近くで他の音に遮られてしまいました。

 それは『完全なる高校野球の日』が、「ゾウを殺さないでください」と懇願する声で、しかし『完全なる高校野球の日』は狂っている(そのうえ臭い)ので、誰も耳を貸しませんし、そもそも井の頭自然文化園のゾウは、もういないので、私はなるべく戦車の音にだけ耳を澄ませながら、その脇を通り抜けていきました。

”はな子(はなこ、1947年 - 2016年5月26日)は、東京都武蔵野市井の頭自然文化園で飼育されていたメスのアジアゾウである[1]

第二次大戦後に初めて日本にやって来たゾウであり[2][3]2013年1月に66歳でアジアゾウの国内最高齢記録を更新し、日本で飼育された中で最も長寿のゾウとなった[1][2]。゛

 

 井の頭公園一帯を抜けると、我が家が近づいてくるのですが、それはつまり私と戦車の家で、そして近い将来私だけの家になる(そして戦車の家ではなくなる)ので、私は悲しくなり(もう、なにもかもが悲しい)、立ち止まって泣きました。

 少しして泣き止んだとき、私は戦車から聞こえる音が、かららんかららんと変わっている(前はきゅららきゅららだか、ネリリ・ハララだかでした)ことに気が付き、それはなんだか、戦車の中になにか悪くて固いようなものが、入って、回って、鳴っているかのように思え、骨だ骨骨、骨に違いないと考えました(これ以上に完璧な理論はこの世にはない)。

 その骨は、ふたこぶ駱駝、『完全なる高校野球の日』、(・∀ ・)、ジャーマンポテト、はな子、『グイン・サーガ24巻』、賓片蕗段落、岩塩、井の頭公園、100匹の犬と766人の人類といくつかの八百比丘尼、あるいはこの世の全ての骨の可能性が非常に高いのですが、私は私自身の骨だと良いな、戦車を終わらせるのが私の骨なら幸せだな、と妙に浮かれて、もう何も、悲しくも寂しくもおかしくもありませんでした。

 

 私が死んだらその骨をコックピットに投げ入れて、戦車をお墓にしてください。

 それが、たったひとつの愛なのです。

 

 

 

だいたいこんな感じでーす。

「過ぎたことは過ぎたこと」なんて言って、俺たち会ったら昔の話ばっかじゃんね

今回は総集編でお送りします。

 

・バイトの面接で、まあそこは如才(これ、いつまで経っても「にょさい」って読んじゃうな)なくこなしたんだけど、履歴書に書いた住所を間違っていた気がしてしょうがない。連絡が配送らしいので不安。社会性。

・そのあと下川氏と北口氏と中華料理屋で会食。所謂オフ会。北口氏、会ったことも写真を見たこともないけど一発で分かった。同類は呼応し合う仕組み。鶏とネギの胡椒和えみたいなやつが美味しかった。

・北口氏は大分在住だけど来年から横浜で働き始めるらしいしたくさん遊べたらなと思う。オタクの友達は多いと嬉しい。

 

・金子のワンマンに行ってめっちゃ良くてオウワーッとなった。ちょっと遅刻したのと、後ろの方で観てたから本村が新しいベースを使ってるかどうか目視出来なかったことだけが残念だった。

・打ち上げが阿佐ヶ谷であって(ゆっくりたくさん話せてよかった)、そのあと二次会がカラオケになりそうだったから抜け出した(カラオケボックスに行くと音がデカすぎるのと暗くて狭いのとで精神が加速する)。午前二時とかだったから三駅分歩いた。

・道すがら一昨年吉祥寺に住んでた時も福田の家に行くために良く自転車で阿佐ヶ谷に行っていたことを思い出す。そのとき何度も迷ったところ(気が付いたら看板の行先が高円寺になっている)でまた迷ってしまって自分の成長しなさに笑った。前住んでた吉祥寺東町のマンションを少し眺めて四時ごろ家に着いた。

 

・「すき家に行くということはつまり、チーズ牛丼を頼むということである」誰の言葉かは知らないけれど、とても素敵で正鵠を射ていると思う。恐らく発言したのは哲学者か社会学者だろう。小説家や音楽家の口からは本当の言葉は出てこない。

・「タバスコをかける時には、タバスコの存在しなかった時代のことを考えると良い。そうすると、ちょうど良い塩梅でかけられる」これは僕の言葉だけど、かなりいい線をいっていると思う。その証拠に今僕の目の前のメニュー表には、チーズ牛丼の並盛と大盛しか書かれていない。コールスローサラダすら、だ。だけど今日は少しタバスコをかけすぎて咽た。

・レジで五百円玉を差し出して帰って来た時の十円はあんなにも頼もしそうに見えたのに、店を出て自動販売機の前に立った瞬間この世で一番情けない存在に思えてくる。こういうことは頻繁に起こる。

 

・一か月以上働いていないせいで時間が余ってしょうがないから、ずっと小説を書いていた。字数換算で十五万字ほどで、そしてそのほとんどがどうしようもない駄文なのだけど、書くことが楽しかったので良い暇つぶしにはなった。

・書いていて一番楽しかったのは餃子を主題に据えた『アメリカの鱒釣り』風のもので、僕はゲラゲラ笑いながら書いていたけど人に見せられるようなものではなかった。あとは夜行バスを舞台にしたボーイミーツガールとか、まあそんなもの。もっと上手く書けるようになったら楽しいのになと思う。

 

 

『君が電話をかけていた場所/僕が電話をかけていた場所』を読みました。タイトルこそ違いますがこの二冊で上下巻という構成です。

顔に大きな痣を持ち、そのせいで後ろ向きな人生を送ってきた主人公が、公衆電話に突如かかってきた不思議な電話の主に「痣が消えた状態で、諦めた初恋を成就させられたら主人公の勝ち。出来なければ負け」という賭けを持ち掛けられ、そして実際に痣は消え、初恋の相手とも再会するが……。という出だしの、かなりファンタジー色の強い恋愛ものです。

高校一年生の主人公の目線を通して描写される夏の雰囲気がとても良いですね。ある種のリプレイ的な内容と相まってかなりノスタルジィを喚起させられます。全編につきまとうほろ苦さも良いスパイスです。

作者の他作品と比べると少し複雑な人間関係が描かれている(単純に登場人物が多い)点や、童話の人魚姫に題材を求めている点など、かなり意欲的な作品だと思います。ジャンル的に好き嫌い分かれるかもしれませんが、エンタメ小説が好きな人は楽しめるでしょう。オススメです。

 

風船すらおかしくなる時代です

この前知り合いがTwitterで彼氏のことを「氏」と呼んでいて、おっ苛立ち~という感じだったんですが、これ仮に彼女をこのパターンに当てはめると「女」になってめっちゃカドが立つ感じありますね。まあお前にどう思われようがどうでもええんやけど。

近況なんですけど相変わらず働いてないです。というかチンポジウム以降だと散歩とスタジオでしか外出してないですね。人と会ったのはスタジオだけです。私たちもう終わりなのかな?チンポジウム以降と以前という時間の区切り方が、確かにこの世にはあります。

ブログの更新頻度を上げてからかなり定期的に無意味ショートショートみたいなのを書いててそこそこ反応もあって嬉しかったんですが、ああいうのばかり書いてると体調悪くなってきたんで今日は普通の日記というか、適当にダラダラ書くアレです。一週間ぐらい間が空いたことについてはノーコメントです。

 

今日は8日ぶりに家族以外の人類とコンタクトを取りました。まあバンドの練習なんですけど。電車に乗ったのも8日ぶりだったのでめっちゃ体調悪くなりましたね。

バンドメンバーもいいかげん付き合いが長くなってきて(全員高校時代からの知り合い)、コミュニケーションの取り方がバグってきたというか「あー」と言えば「うぅっ」と返ってきてそれで完了。みたいな。もうそんなんなんで一緒にいてもストレス無いんですよね。全人類僕が「あー」って言ったら「うぅっ」って返してくれるようになったら良いのにね。

 次のライブは7月18日に高円寺UFOクラブです。何気に出るの初めてですね(前にも誘われてたんですが、なんかめっちゃ電話掛けてくるから怖くなって着信拒否した)。余命百年やまのはの企画です。呼んでくれてサンキューな。

 

時々夜中に散歩に繰り出してはひたすら暗いアスファルトを配信してるんですが、やっぱり夜の街を歩くというのは非常に良いものだなと思います。

特に雨上がりとか最高ですね。雨上がりってなんていうか独特な匂いがするじゃないですか。あのコンクリートの匂いっていうか。なんなんですかねアレ。その独特の匂いが夏場だと余計に強烈で、外出して一度空気を吸い込むだけで全細胞があの匂いと結びついたような気持ちになるんですよね。それが好きで蒸し暑くてもつい家から出てしまいます。

あとは湿り気を孕んでより黒々としてる道路の姿とか、ささやかな水たまりが街灯でキャラキャラと輝くさまとか良いですよね。水たまりで言うと垂れたガソリンと混じってふざけた虹色みたいになってるのも好きです。世の中全部ああいうもので出来てたら良いのにね。俺とか、お前とか。あとバイトとか。

 

 夏の夜の雨上がりの道路みたいなバイト(シフト・髪型自由)を探しています。時給はいくらでも良いです。

 

 

舞城王太郎の『みんな元気。』を読みました。

みんな元気。

みんな元気。

 

中編程度の長さの表題作に掌編が二つくっついてます。なんか元は『スクールアタック・シンドローム』と合わせて一冊の単行本だったらしいです。おめでとう。

なんかネットでの評判を見てると、まとまりの無さを主な理由にそこまで評価が高くないみたいなんですが、僕はとても楽しめました。まあそもそも単純にこの人の文章が好きなんですけど。

 

僕は勝手にこのお話のテーマは「跳躍力」(ニュアンスの話なので読んだ人それぞれにこれと似たようなワードが浮かんでくると思います)だと思ったんですが、それが出るだけ出て処理されないいくつもの小さな出来事を動力に進むジェットコースター的展開の遠心力と上手く絡み合っていて、そういう意味ではまとまりがない、なんて風には全く感じませんでした。

どう考えてもめちゃくちゃで辻褄合ってねえだろ!みたいな展開を、マシンガンみたいな文章ととんでもないロマンチシズムで押し通す舞城作品の感じ本当に最高ですよね。ファンなんですけど思っていたより未読の作品多かったことに気が付いたので、ちょこちょこ手を出していきたいです。

 

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

 

あとガルシアマルケスを久しぶりに読んでいるんですけど、めちゃ面白い代わりにめちゃ読みづらいです。登場人物がみんなフルネームなのが本当にキツイ。

『予告された殺人の記録』は中編なんですがそれでも読むのにかなりかかってます。『百年の孤独』は二十歳の頃一回読んだんですけどこの感じだと再読する気にはなれないですね。

というか『百年の孤独』どこに行ったんだろう。捨てちゃったのかな。3000円とかするから買い直したくねえ~~。

今年の夏はなんとなく避けてた名作をちゃんと読んでいきたいですね。大江健三郎とか。

 

だいたいこんな感じでーす。

ハレだのケだのとうるさいよ

 「俺に初めて彼女が出来たのは十六の時で、名前はユキっつったんだが。おいおいなんだその顔は。俺にも彼女ぐらいいたよそりゃ。全く失礼な奴だな。まあいいや。そんでまあ田舎のガキだったからよ、とにかくどう接したらいいのかわかんなくてさ。彼女が出来た、なんつったら周りの馬鹿どもになんて囃し立てられるかも分かんねえから、相談も出来ねえし。

  だから手も繋げねえまま半年ぐらい経っちまってさ。あるとき急に言われるわけよ。私、情けなくてやってらんない。別れましょ。ってさ。で、まあ言われた俺はボーゼンって感じなんだけどよ、ボーゼンとしながら気が付いたら向こうの顔を殴ってたんだよね。そしたら今度は向こうがボーゼンとして、そのまま逃げるように去ってくわけ。

  まあそりゃそうなんだけど、残された俺はなんとまあ勃起してんのよ。おっ立っちまって静まんねえの。兎にも角にも初めてがそんな感じだからさ、それからも万事そんな調子なんだよな。いや、もちろん年を重ねるごとにさあ。あ、俺今いくつに見える?三十ぐらい?へっへっ、四十一だよ馬鹿たれ。あー……なんの話だっけ?ああ、そうだそうだ。

  こう年食ってくとよお、俺みたいなやつにも段々女との接し方が分かってくるんだわ。まあ要はやることやってたってだけの話なんだけどさ。ししし。でも最後は全員ぶん殴っちまう。ユキのときと同じようにな。女の方の反応はまあいろいろだったね。ユキみたいに逃げるやつもいりゃ、めちゃくちゃに泣きわめくやつも、殴り返してくる奴もいたね。まあそんなやつらももう一発殴れば黙って去ってくんだけどさ」

 

 そんなことを一気に捲し立てて、ジュンちゃんはグビグビ喉を鳴らしながら缶コーヒーを飲んだ。飲み終わっても何も言わないところをみるともう話は終わりのようだった。一体何を伝えたかったのだろう。

 昼下がりの井の頭公園には親子連れと老人ばかりで、なんとなく僕は居心地が悪かった。こうしてベンチに並んでいるとジュンちゃんと親子に見えたりしないかな、と一瞬考えたけど自分が今年二十五歳になるという事実が急に顕在化して、自分の思い付きを打ち消しつつ気分を重くさせた。

 

 僕が探偵事務所兼焼肉屋兼ライブハウス「オデッセイ・オデッセイ」を退職して、そろそろ一か月が経とうとしていた。「オデッセイ・オデッセイ」での探偵兼肉の仕入れ担当兼ブッカーの仕事を離れた僕がまず最初にやったのは、貯金を使い潰しつつ外出もせず本を読み続けることだった。でもそれにも二週間ほどで飽きたので、近所を散歩するようになった。そこで出会ったのがジュンちゃんというわけだ。

 ジュンちゃんは僕と同様に曜日を問わず、昼過ぎから夕方まで近辺をフラフラしているようだった。僕が散歩を始めてからの五日間、毎日どこかしらですれ違うということが続いて、とうとう五日目に向こうから声をかけてきた。曰く「目が死んでるから仲良くなれそうだと思った」とのこと。余計なお世話だ、と思う。

 ジュンちゃんはとても気さくで、人懐っこいところがあった。一回り以上歳の離れた僕と、友達のように接してくれる。僕と同じく仕事はしていないようだったけど、身なりは綺麗で着ている服も上等そうに見えた。人たらしの臭いを感じたからヒモの類なのかな、とも思ったけど何も訊かなかった。向こうもそうしなかったし、なんとなくそれがルールのように思えたからだ。特に約束もせず各々がフラフラしている途中で会ったら話す。会わなかったら話さない。そういう関係性が続いていた。

 

 だから、今日ジュンちゃんが(まとまりがないとは言え)身の上話のようなものをし始めて、僕は内心驚いていた。いつもは本当にどうでもいいような世間話をして、しばらく無言でボーッと過ごして、適当なタイミングで解散するのがお決まりのパターンだった。そのルーチンを壊したことに、何か意図はあるのだろうか。

 僕は少し遠くの親子連れたちから、左隣のジュンちゃんに視線を移した。ジュンちゃんは視線を下げて、手元の缶を見つめている。恐らく中身はもう入っていないだろう。明らかにいつもと様子が違っていた。

 

 「昨日、母親の見舞いに行ってきたんだよ」突然、ジュンちゃんは絞り出すようにそう言った。そういえば、たしかに昨日は何日かぶりに会わなかった。

 「もう長くはないんだとさ。まあ、歳だからしょうがいないっちゃあそうなんだけどよ、やっぱ弱ってくとこ見るのは辛えよな」

 言い終えるころには、視線だけではなく頭全体が下を向いていって、表情もわからなくなってしまっていた。僕は何を言うべきか分からずに、ただじっと黙っていた。

 

 「で、兄貴が言うわけ。二人兄弟なんだけどさ。『お前みたいなちゃらんぽらん、母さんに心配かけるだけなんだから来るのは今回限りにしろ。入院費は全部俺が出すし、もしものことがあったら連絡する』って。まあたしかに立派に勤め人やってる兄貴と比べたら、俺なんか親不孝モンも良いとこだけどさあ。それにしたってあんまりだよなあ」

 ジュンちゃんはもうほとんど泣いているような声でそう言った。表情は見えないけど、本当に泣いているのかも知れなかった。

 「病院の中で喧嘩はマズイと思って昨日はそのまま帰ったんだけど、やっぱ悔しくてさあ。俺どうしたらいいのかなあ」

 

 僕はなるほどね、とだけ相槌を打って、それから何も言わなかった。ここまで込み入った個人の問題に僕の立場で言えることなど何もなかったし、ジュンちゃんもただ話したかっただけでアドバイスなど求めてはいないだろう。僕らはただの散歩仲間なのだから。

 ジュンちゃんは相変わらず俯いたまま、僕は適当に視線を右往左往させながら、僕らはしばらく黙っていた。気まずいような、気まずくないような、不思議な時間だった。

 そこに「帰るわよー」という声が聞こえたので、僕はその方向を向いた。三人の母親が三人の子供を連れて、六人の塊となって動き始めたところだった。

 いつの間にか、ジュンちゃんもその方向を見つめていた。上げた顔の目尻が少し濡れていたので、やはり泣いていたんだなと僕は思った。最初は見づらそうに細められていたジュンちゃんの眼は帰途につく親子連れを追いかけながら、どんどんどんどん開いていった。そして、もう限界だろうというところまで開かれた瞬間、ジュンちゃんは立ち上がった。

 

 

 「ウワアァァァァーーーーーーーッッッッッ!!!!!!!!!!」

 

 

 とんでもない音量で叫びながら、ジュンちゃんは走った。

 あまりの大きさだったので二百メートルほど先にいる六人にも聞こえたのか、それぞれの母親は我が子を抱きかかえて走り始めたようだった。

 僕はというとその場で何かの発作かと疑われそうなぐらい笑い転げていた。「意味が分からないことが起こるとめちゃくちゃに笑ってしまう」という悪癖が出てしまったのだ。走り出した瞬間のジュンちゃんが勃起していたことが、それに拍車をかけた。

 

 

 「ウワアァァァァーーーーーーーッッッッッ!!!!!!!!!!」

 

 

 母親たちも懸命に走っていたが、男性のジュンちゃんと女性、それも我が子を抱えている彼女らではどちらが早いかなど明らかだ。ジュンちゃんはあっという間に一組の母子に追いついた。

 追いついて、そして追い越した。まるでそんなもの存在していないかのように、ジュンちゃんは母子の脇をスピードも落とさず走り抜けた。当然ながら僕とジュンちゃんと六人の母子以外にも公園に人はいたけど、みんなジュンちゃんから逃げるように道を開けていた。

 僕は相変わらず笑いが止まらなかった。きっとまだ勃起しているんだろうなと思うと、涙と鼻水が出てきた。

 

 

 「ウワアァァァァーーーーーーーッッッッッ!!!!!!!!!!」

 

 

 ジュンちゃんはグングン遠ざかっていって、もうほとんど見えなくなった。そのまま公園を抜けださんばかりの勢いだった。当然声も聞こえなくなったけど、かろうじて見える周囲の反応から察するとまだ叫び続けているようだった。

 六人の母子もいつの間にかいなくなっていた。もしかするとすぐ近くの交番に駆け込んで、警察に事情を説明しているかもしれない。面倒なことに巻き込まれたら敵わないから、僕もここを離れることにした。

 公園を出ていくころになると、ようやく笑いの波は収まっていた。ジュンちゃんがいつまで勃起していたのかを考えるとまた波が起こりそうだったので、そこに思いを馳せないよう気をつけた。

 

 真っすぐ家には帰らず、少し遠まわりをしてスーパーに寄った。今日はカレーにしよう。それも少しだけ手の込んだやつを。

 買い物を済ませて家に帰ると抱えた食材を冷蔵庫には入れず、そのまま調理を始めた。外で食べるカレーも好きだけど、家で作って食べるカレーはまた別物として好きだ。市販のカレールーでもホールトマトを使うとグッと美味しくなる気がする。三時間ほどかかって満足のいく味に仕上がった。

 出来上がったカレーを皿に盛りながら、僕は少しジュンちゃんのことを考えていた。きっと、もう会うことはないだろう。根拠はないけどそう確信している。そしてそれは少し寂しくも感じる。

 

 そんな感傷とは別に、やっぱりカレーの具はゴロゴロと大きい方が良いなと思った。

 

 

だいたいこんな感じでーす。

餃子を飼う

 『私、餃子を飼っているんです』

 そんな言葉が書かれた紙が目の前に置かれたので、私は思わず顔を上げた。読書中ではあったが、それを中断させるぐらいには不可解かつ興味深い文章だった。
 
 時刻は、そろそろ十七時になろうかという頃だった。
 連雀コミュニティセンターで読書をしていた私が、『天狗の落し文』で筒井奇想に感嘆し、『良い子のワクワク恐竜大図鑑』でティラノサウルスの勇猛さに畏敬の念を示したのに続いて『東京餃子百選』をパラパラとめくり始めたその時に、予期せぬ置き手紙が届けられたのである。
 (釈明するわけではないが、普段私はこのような雑多な読み方はしない。ここに来る前に立ち寄った古本屋「上々堂」の文庫本の品揃えが、今日はたまたま私のニーズと合致しなかっただけなのだ)
 
 送り主は、円卓を挟んで対角線上、つまりは私の目の前に座っていた。気が付けば先程まで他の円卓で新聞や参考書に噛り付いていた人たちは消えていて、このフリースペースには私たち二人しかいなかった。もし誰かがこの状況を傍から見たなら、私たちは知人同士に見えていることだろう。
 恐らく中年の男だった。恐らく、というのは彼(暫定的にそう呼称する)の顔が額から上をシルクハット、鼻から下を大きな黒のマスクで覆われており、それらに挟まれるようにして目の高さのラインが露出しているのみだったからだ。その部分から窺い知れる情報として、それなりにはっきりと刻まれた目尻の皺と油分を感じさせる浅黒い肌があり、それらを統合した私は、目の前の人物を自分の年齢の倍かそれより少し若いぐらいの年齢の男だと結論づけた。
 服装はタキシードだった。確かにシルクハットとの親和性は高いが、六月も終わろうかという時節にはあまりにも不似合いだ。見た目からも行動からも、明らかにまともに取り合ってはならない相手だというのは理解できたが、何故だか私はすぐにその場を立ち去るようなこともせず、それどころか男と話してみたいとすら思っていた。読書に飽きてきていたことと、何か面白いことが起きるのではないかという助平根性が働いたことがその主たる理由だった。
 
 「餃子を飼うとは、いったいどういうことですか?漢字を間違ってはいませんか?」
 男が筆談で語りかけてきたこともあって、声に出す形で応答することに躊躇はあったが(男の耳が不自由な可能性を考慮する程度の思いやりは、まだ私の中にも残っている)、筆談同士でのコミュニケーションは非常に手間だと感じたので、一度彼の耳に問いかけてみることにした。
 
 『間違いではありません。飼っています。愛玩食物、というやつでしょうか』
 筆談に慣れているのか、男からの返事は早かった。ペンを滑らせる所作が非常に丁寧だったので、私は警戒心のレベルを一つ下げた。私の言葉は聞こえているようだったため、筆談をせずに済んだことに安堵しつつも、「餃子を飼う」という言葉の謎が深まったことを感じていた。
 「愛玩食物」とはなんぞや――。そんな私の疑問を察したのか、男は懐から一枚の写真を取り出し、私に差し出した。
 写真には、男と餃子が写っていた。これが、もし中華料理屋などで皿に盛られた餃子と、それを前に食欲満々といった表情の男を写したものであったなら、ただのなんてことない日常の一枚と切って捨ててしまえただろう。だがこの写真はそうではなかった。
 
 餃子は、リードで繋がれていた。
 小型犬用と思われる赤いリードが、餃子の中心で輪っかを作るような形で装着されていた。そしてそれを両手で大事そうに抱きかかえている男。そこでようやく私は、この餃子がジャンボ餃子であることに気が付いた。餡を皮で包む際に出来る両端のトンガリが、それぞれ男の手からはみ出していたからだ。
 私は思わず、手元の写真と目の前の男とを交互に見た。男はいかにも自慢げといった様子で目尻の皺を深めている。そこで私はこの男は狂人なのだと合点がいった。それは、最初に男を見たときの印象の再確認のようなものでもあった。狂人であることの確認。まともではないという烙印。
 
 『家では他にもたくさんの餃子を飼っています。中には10メートルを越すものもいますよ』
 ついには男がこんなことを書いて寄越すものだから、私は思わず吹き出してしまった。もはや私の男に対する興味は冷え切っていて、ただの嘲笑の対象としてしか見ていなかった。
 
 『信じられませんか?では実物を見に来てください。歩けばすぐの場所ですから』
 男はあくまで淡々と、そう書き連ねた。マスクとシルクハットに挟まれた一部分のみを見た限りでは、私の馬鹿にするような態度にも特に何も感じていないようだった。
 「良いでしょう。行きますよ。案内してください」そう言って、私は男と共に席を立った。頭の中では、酒の席で受けそうな馬鹿話が一つ仕入れられたぞ、などとくだらないことを考えていた。馬鹿話にはオチが必要だとも思っていた。
 
 男の先導で、私たちは歩いた。三鷹駅の方面に行く途中で左に折れ、少し古めの住宅が並ぶ寂れた通りを歩いていく。築年数30年程度の物件の群れを掻き分けた先に、男の家はあった。
 近隣の中では比較的新しい、水色の三階建ての一軒家だった。建物自体には何ら特別なところは見当たらなかったが、庭がやたらと広かった。フットサルコート二面分ほどの広さの庭には軽自動車が申し訳なさそうに停車しているだけで、あとには植物の一つもなく砂利と雑草だけが賑わっていた。
 
 「ここなんですね?じゃあ見せてください。10メートルを越える餃子とやらを」
 庭の広さには少々驚きつつも、私の余裕は崩れなかった。そもそも10メートルの餃子など存在するはずがないし、仮に男が偏執的な努力の果てに超巨大餃子を作り上げていたとしても、今私の目の前にはそれを隠す場所などなかったからだ。
 
 『では、今連れてきますから目を閉じてください』
 男は相も変わらずの筆談で、そう告げた。目を閉じろとは、手品でもするつもりなのだろうか。少々訝しがりながらも、私は目を閉じた。更には求められてもいないのに男の家に背を向けた。手品でもなんでも、出来るものならやってみろという心持ちだった。
 
 笛の音が聞こえた。恐らくは男が吹いたものだろう、私はそう思った。
 次の瞬間、地面が大きく揺れ、ズシン、ズシンと地鳴りのような音が響き渡った。そしてそれは、徐々に近づいてきているようだった。まさか!私は目を開け、すぐさま振り返った。
 
 そこにいたのは餃子ではなかった。
 体長が10メートルを越している、というのは男の言った通りだったが、他の何もかもが違っていた。
 非常に大きく発達した頭部は、生物史上屈指と言われるほどの咬合力をもたらしている。それと比較してとても小さな前肢と、もう一つの特徴と呼ばれる大きな尻尾は、不気味に小さく揺れている。これらと合わせてバランスをとるために行われる水平歩行は、直立歩行と比べると威圧感こそないものの、我々小さきものに対して捕食者の存在を間近に感じさせ、一層の恐怖感を煽っている。
 つまりこれは、ティラノサウルスだった。近年の研究で様々なマイナスイメージ(死肉食らい、羽毛、走れない等々)がつけられつつも、いまだに恐竜について思いを巡らせた際に真っ先に思い浮かぶ、謂わば恐竜の王がそこにはいた。
 
 私は驚きのあまり、その場で固まって動けずにいた。私よりも遥かに狼狽えた様子の男が、私に詰め寄り胸倉を掴んだ。
 「ああクソっ!一体どうなってるんだ!おい、お前さては恐竜図鑑を読んでいやがったな!」
 男は筆談ではなく、大声で私に捲し立てた。使い古してザラついたタオルを耳に入れた時のような、ゴワゴワとした不思議な声だった。
 
 「クソっ、もうどうにもならねえ。おい馬鹿野郎!さっさと失せろっ、もう二度とその面を見せるんじゃねえぞ!」
 そう言われても、ワケが分からぬままの私はその場を離れられずにいたが、ティラノサウルスがギャオッと吠えたのを聞いて我に返り、弾かれたようにその場から走り去った。純然たる恐怖の対象が目の前にいることを、そこでようやく思い出したのだ。
 もつれそうになる足を懸命に動かし、切れる息にも構わず私は走った。方向などでたらめだった。とにかく走り続けていないと、何か恐ろしい目に遭う気がしてならなかった。
 
 気が付くとそこは、「上々堂」の前だった。見知った場所に辿り着いた安堵感から、私はその場にへたり込んだ。通行人は皆私に心配そうな顔こそ向けたものの、声を掛けてくる者はいなかった。心臓が今まで感じたこともないようなスピードで脈打っている。それを落ち着けようと、ゆっくりゆっくりと息を吸って、吐いた。
 しばらくそうしていると少し落ち着いてきたので、私は立ち上がった。時計を見ると、男と会ってから一時間ほどしか経っていなかった。少し辺りを見回してみたが、男の家がどちらの方向にあるのかすら、もう分からなくなってしまっていた。
 
 私は少しふらつきながら歩き始めた。しばらく歩くと「餃子のハルピン」に辿り着いた。当然といった動作で店の扉を開けると、当然といった顔でカウンター席に座り、当然といった声でニラ餃子を頼んだ。そして当然といった口でそれを頬張り、当然といった私でその味に喝采を送った。
  「ハルピン」の餃子は絶品だったが、私にはこれを飼おうなどという発想は浮かんでこなかった。やはり男は狂っていたのだと思う。
 
 
 狂人のことは、私には良く分からない。
 
 
 
だいたいこんな感じでーす。
 
 
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