ならそれでいいです

そろそろ優勝したい

『街』と『思い出』と『憧れ』について

京王井の頭線渋谷駅は一言で済ませると空洞で、二言目を添えるなら でした。それはつまり、僕にとって非常に不快の溜まる場所でもあるということではあったのですが、幾星霜もかけてこびりついたような出勤(通学)退勤(退学)の残滓がそうさせていた可能性が高く、それならば苛立っても仕方のないことでした。駅とは元来そういうものだからです。

とにかく僕はその場にいると自分までもが空洞(或いは )になってしまいそうな気がして、そそくさと改札を抜けました。毎朝毎晩の溜息の面影たちは、邪魔をすることなくサッと道を開けてくれたので、その点に関しては良かったと思います。

 

時刻は18時58分。夕方まで降り続いていた雨は上がり、アスファルトの濡れ方とそれに蓋をするような湿気だけがその残り香として存在しています。

残滓、面影、残り香。以前どこかで聞いた『街』というものが様々な人間の『思い出』で出来ていて、梅雨時のようにどんよりした日にはそれが目に視えるようになるという噂は本当だったのかもしれないな、と僕は思いました。人間というのは忘れていく生き物ですが、その忘却の権化にすら忘れられぬものだけが、寄り集まって『街』となるのではないでしょうか。

 

この仮説が正しいか否かはともかくとして、渋谷の『街』には『思い出』が漂いすぎているのは事実です。腕を組んで歩く恋人の仕草に幼き日の母の『思い出』を見る男、かつて漁った残飯を『思い出』しては虚空をがっつく野良猫、冬の『思い出』が強すぎたのでしょうか、自身の周りにだけ雪を降らせてモッズコートの『思い出』を纏ったティッシュ配り。

本来タレかつ屋であるはずの店舗に、かつて同じ場所で営業していたイタリアンバルがオーバーラップしていた(居抜きだったんでしょうか)のには少し面食らいましたが、とにかくどこもかしこもこのような有様なのです。なんだか身の危険を感じた僕は、できるだけ身を低くして、駆け足気味に目的地を目指しました。こういうときに、小学校の避難訓練を真面目に受けていて良かったなと思います。いかのおすし。違った、それは防犯標語だ。おはしおはしおはし、おかしでも可……。

 

目的地というのはスタジオペンタムーンサイド店のことで、そこを目指すのは僕のやっている「So Sorry,Hobo」という梲の上がらないバンドの練習が今日そこであるからなのでした。

道中『思い出』を極力視界に入れないように気を張っていたおかげもあってか、特にトラブルなく辿り着くことが出来ました。雑居ビルの階段を上がって三階に上がり、店員さんに案内されてCスタジオの扉を開けます。

 

僕より先に到着していたのはギターの岩井とドラムの足立くんの2名。いつもこのバンドで集まると僕だけが少し遅れるのですが、今日はもう一人来ていません。僕が言おうとしたことを察知したのか、「生田くんは電車の遅延で遅れるってさ」と岩井の口から告げられます。さすがに付き合いが長いので僕が言いそうなことなどお見通しということなのでしょうか。

ともかく、4人全員が集まらないことには練習になるものもならないので、適当にセッティングを済ませた僕たちは世間話を始めました。僕たちは演奏よりもお喋りが好きな集団なので、別に4人全員が集まっていても練習そっちのけで世間話に興じることも少なくないです。

 

岩井のやっているもう一つのバンドの話や、労働についての話をしたと記憶しています。こういうとき、基本的に話すのは僕と岩井だけで、足立くん(もしいれば生田くんも)は聞き役に回ることが多いです。人柄までリズム隊らしさが出ているようです。

僕はこういうとき決まって最近読んだ本の話をします。今日は田中慎弥の『共喰い』についてでした。

 

共喰い (集英社文庫)

共喰い (集英社文庫)

 

「最初、すごく読みづらい小説だなと思ったんだよね。文体が淡泊なのに描写がねちっこくてさ。特に性的なところ。暴力描写がそこまでしつこくないから余計にそう思ったのかもしれないけど、とにかくどういう気持ちで読んだら良いか掴みかねた。けど、終盤は勢いがあって良かったね。かなり暗くて重たい話だと思うけど、それ一辺倒じゃなくて、全体としては面白かった。あとこの作者、顔が『THE小説家』って感じで好きだなあ」

 

 だいたいこのようなことをべらべらと喋っていたのですが、2人はこれを読んでいないからか(または読んでいて僕の浅すぎる読み方に呆れていたのか)、反応は鈍いものでした。なんとなく居心地が悪くなり、口の中が乾いていきます。

それならば、と話題を変えることにしました。というより、今日は(本の感想などというブログかツイッターに書けば事足りるものではなく)この話をするべきだったのではないでしょうか。つまり『街』と『思い出』についてです。

僕は今日駅からここに来るまでに起きたこと、見たこと、いつかどこかで耳にした噂、そしてそれらを統合して算出した仮説について2人に話しました。

 

「なるほど」岩井がタバコをもみ消しながら言います。「そいつは興味深い話だ」

「というか2人は今日『思い出』を視なかったの?」岩井と足立くんを交互に見やりながら、僕は尋ねます。

 「いや、視てないな」「僕も視てないですね」それぞれが小さく首を振りました。

 

「一体どうしてだろう。2人はそこまで『思い出』に無頓着な人間だったのか?」

「そうじゃねえよ」岩井が少しムッとした声で答えました。「俺にはこれがあるからな」

 

そう言って岩井は、彼愛用のギター、レスポールカスタムを撫でました。「楽器ってのは邪のものを払うからな。『思い出』なんてのはどこまでいったって枷でしかねえし、そんなもん邪魔だろ。邪魔ならそいつはもう邪のものだよ」

なるほど、そんな噂も確かに聞いたことがあります。しかしそうなるとまた新たな疑問が湧いてきました。

「じゃあなんで、僕には『思い出』が視えたんだ?僕だってギターを背負ってきたぞ」

 

そうなのです。描写の都合で省いてはいましたが、僕の担当はギターボーカル。今日だって家から愛機ムスタングをここまで運んできているのです。それなのに何故。

しかし、そんな僕の疑問は一瞬で瓦解させられることとなります。岩井のひどく残酷な、しかし文句のつけようのないほどに正しい一言によって。

「そりゃおめえは全然練習しないからだろ。梶原みたいな不真面目な使い手、道具だって嫌がるだろうよ」

 

またもやなるほど。実際僕のギターの腕前は10年ほど弾いているにも関わらず、そこいらの高校生のほうが遥かにマシなレベルです。そんな程度では、『思い出』を振り払うことは出来ないということなのでしょう。

「あれ?じゃあ僕に『思い出』が視えなかったのは、なんでですか?」

納得している僕をよそに、今日一番大きな声で、足立くんが疑問を呈しました。たしかに、彼は今日仕事帰り。ドラムの演奏に必要な一式は、スタジオのものを借りています。そんな彼にも『思い出』が視えなかったとなると、ここまで並べられた岩井の一連の発言の真偽も怪しくなってきます。

 

「それはもっと簡単な話だよ」しかし、僕の不審の眼などまるで感じていないかのように、何を当たり前のことをといった口調で岩井は話します。「足立くんは、正社員だからねえ」

これには脳天を撃ち抜かれたような思いでした。確かに足立くんはこのバンド唯一の正社員。圧倒的な社会的地位の差。その鋼鉄の防御の前には『思い出』が付け入る隙など微塵もないはずです。

 つまり、僕が体験した不思議な出来事は、自らのギタリストとしての未熟さと、社会的地位の低さがもたらしたものだということになります。なんという不覚。これではただの道化ではないですか。恥ずかしさに突き動かされるようにして、僕がまさに今奇声を上げんとしていたそのときでした。

 

「すいません遅くなりましたあ」

 

電車の遅延により遅れていた4人目のメンバー、ベースの生田くんが到着。バンドメンバーの中でも非常にマイペースな彼は、いつもと変わらぬのんびりとした動きで機材を搬入します。

いつもと変わらぬ。そのはずでした。彼の身の丈が、4メートル近く、いつもの倍ほどにも達していなければ。

奇妙な光景でした。生田くんの立っている場所の天井だけが、上から引っ張られたような形で伸び、まるで彼に不自由させまいと思いやっているかのようです。そして彼の移動を追尾するかのように、生田くんの動きに合わせて天井は伸びる場所を変え、彼のいなくなった場所の天井は、元の高さに戻っていきます。

 

「ど、どうしたのそれ」驚きのあまり言葉を失ってしまった僕と足立くんを代表して代弁して岩井が尋ねました。

「いやあ、身長倍にならねえかなあって『憧れ』ちゃったんですよねえ」生田くんは照れ臭そうに頭を掻きながら、そう答えました。

 

『憧れ』ならしょうがないかあ。と、僕と岩井と足立くんは口元だけでゲラゲラ笑いました。

 

そうして、このようになりました。

 

 

だいたいこんな感じでーす。