ならそれでいいです

そろそろ優勝したい

餃子を飼う

 『私、餃子を飼っているんです』

 そんな言葉が書かれた紙が目の前に置かれたので、私は思わず顔を上げた。読書中ではあったが、それを中断させるぐらいには不可解かつ興味深い文章だった。
 
 時刻は、そろそろ十七時になろうかという頃だった。
 連雀コミュニティセンターで読書をしていた私が、『天狗の落し文』で筒井奇想に感嘆し、『良い子のワクワク恐竜大図鑑』でティラノサウルスの勇猛さに畏敬の念を示したのに続いて『東京餃子百選』をパラパラとめくり始めたその時に、予期せぬ置き手紙が届けられたのである。
 (釈明するわけではないが、普段私はこのような雑多な読み方はしない。ここに来る前に立ち寄った古本屋「上々堂」の文庫本の品揃えが、今日はたまたま私のニーズと合致しなかっただけなのだ)
 
 送り主は、円卓を挟んで対角線上、つまりは私の目の前に座っていた。気が付けば先程まで他の円卓で新聞や参考書に噛り付いていた人たちは消えていて、このフリースペースには私たち二人しかいなかった。もし誰かがこの状況を傍から見たなら、私たちは知人同士に見えていることだろう。
 恐らく中年の男だった。恐らく、というのは彼(暫定的にそう呼称する)の顔が額から上をシルクハット、鼻から下を大きな黒のマスクで覆われており、それらに挟まれるようにして目の高さのラインが露出しているのみだったからだ。その部分から窺い知れる情報として、それなりにはっきりと刻まれた目尻の皺と油分を感じさせる浅黒い肌があり、それらを統合した私は、目の前の人物を自分の年齢の倍かそれより少し若いぐらいの年齢の男だと結論づけた。
 服装はタキシードだった。確かにシルクハットとの親和性は高いが、六月も終わろうかという時節にはあまりにも不似合いだ。見た目からも行動からも、明らかにまともに取り合ってはならない相手だというのは理解できたが、何故だか私はすぐにその場を立ち去るようなこともせず、それどころか男と話してみたいとすら思っていた。読書に飽きてきていたことと、何か面白いことが起きるのではないかという助平根性が働いたことがその主たる理由だった。
 
 「餃子を飼うとは、いったいどういうことですか?漢字を間違ってはいませんか?」
 男が筆談で語りかけてきたこともあって、声に出す形で応答することに躊躇はあったが(男の耳が不自由な可能性を考慮する程度の思いやりは、まだ私の中にも残っている)、筆談同士でのコミュニケーションは非常に手間だと感じたので、一度彼の耳に問いかけてみることにした。
 
 『間違いではありません。飼っています。愛玩食物、というやつでしょうか』
 筆談に慣れているのか、男からの返事は早かった。ペンを滑らせる所作が非常に丁寧だったので、私は警戒心のレベルを一つ下げた。私の言葉は聞こえているようだったため、筆談をせずに済んだことに安堵しつつも、「餃子を飼う」という言葉の謎が深まったことを感じていた。
 「愛玩食物」とはなんぞや――。そんな私の疑問を察したのか、男は懐から一枚の写真を取り出し、私に差し出した。
 写真には、男と餃子が写っていた。これが、もし中華料理屋などで皿に盛られた餃子と、それを前に食欲満々といった表情の男を写したものであったなら、ただのなんてことない日常の一枚と切って捨ててしまえただろう。だがこの写真はそうではなかった。
 
 餃子は、リードで繋がれていた。
 小型犬用と思われる赤いリードが、餃子の中心で輪っかを作るような形で装着されていた。そしてそれを両手で大事そうに抱きかかえている男。そこでようやく私は、この餃子がジャンボ餃子であることに気が付いた。餡を皮で包む際に出来る両端のトンガリが、それぞれ男の手からはみ出していたからだ。
 私は思わず、手元の写真と目の前の男とを交互に見た。男はいかにも自慢げといった様子で目尻の皺を深めている。そこで私はこの男は狂人なのだと合点がいった。それは、最初に男を見たときの印象の再確認のようなものでもあった。狂人であることの確認。まともではないという烙印。
 
 『家では他にもたくさんの餃子を飼っています。中には10メートルを越すものもいますよ』
 ついには男がこんなことを書いて寄越すものだから、私は思わず吹き出してしまった。もはや私の男に対する興味は冷え切っていて、ただの嘲笑の対象としてしか見ていなかった。
 
 『信じられませんか?では実物を見に来てください。歩けばすぐの場所ですから』
 男はあくまで淡々と、そう書き連ねた。マスクとシルクハットに挟まれた一部分のみを見た限りでは、私の馬鹿にするような態度にも特に何も感じていないようだった。
 「良いでしょう。行きますよ。案内してください」そう言って、私は男と共に席を立った。頭の中では、酒の席で受けそうな馬鹿話が一つ仕入れられたぞ、などとくだらないことを考えていた。馬鹿話にはオチが必要だとも思っていた。
 
 男の先導で、私たちは歩いた。三鷹駅の方面に行く途中で左に折れ、少し古めの住宅が並ぶ寂れた通りを歩いていく。築年数30年程度の物件の群れを掻き分けた先に、男の家はあった。
 近隣の中では比較的新しい、水色の三階建ての一軒家だった。建物自体には何ら特別なところは見当たらなかったが、庭がやたらと広かった。フットサルコート二面分ほどの広さの庭には軽自動車が申し訳なさそうに停車しているだけで、あとには植物の一つもなく砂利と雑草だけが賑わっていた。
 
 「ここなんですね?じゃあ見せてください。10メートルを越える餃子とやらを」
 庭の広さには少々驚きつつも、私の余裕は崩れなかった。そもそも10メートルの餃子など存在するはずがないし、仮に男が偏執的な努力の果てに超巨大餃子を作り上げていたとしても、今私の目の前にはそれを隠す場所などなかったからだ。
 
 『では、今連れてきますから目を閉じてください』
 男は相も変わらずの筆談で、そう告げた。目を閉じろとは、手品でもするつもりなのだろうか。少々訝しがりながらも、私は目を閉じた。更には求められてもいないのに男の家に背を向けた。手品でもなんでも、出来るものならやってみろという心持ちだった。
 
 笛の音が聞こえた。恐らくは男が吹いたものだろう、私はそう思った。
 次の瞬間、地面が大きく揺れ、ズシン、ズシンと地鳴りのような音が響き渡った。そしてそれは、徐々に近づいてきているようだった。まさか!私は目を開け、すぐさま振り返った。
 
 そこにいたのは餃子ではなかった。
 体長が10メートルを越している、というのは男の言った通りだったが、他の何もかもが違っていた。
 非常に大きく発達した頭部は、生物史上屈指と言われるほどの咬合力をもたらしている。それと比較してとても小さな前肢と、もう一つの特徴と呼ばれる大きな尻尾は、不気味に小さく揺れている。これらと合わせてバランスをとるために行われる水平歩行は、直立歩行と比べると威圧感こそないものの、我々小さきものに対して捕食者の存在を間近に感じさせ、一層の恐怖感を煽っている。
 つまりこれは、ティラノサウルスだった。近年の研究で様々なマイナスイメージ(死肉食らい、羽毛、走れない等々)がつけられつつも、いまだに恐竜について思いを巡らせた際に真っ先に思い浮かぶ、謂わば恐竜の王がそこにはいた。
 
 私は驚きのあまり、その場で固まって動けずにいた。私よりも遥かに狼狽えた様子の男が、私に詰め寄り胸倉を掴んだ。
 「ああクソっ!一体どうなってるんだ!おい、お前さては恐竜図鑑を読んでいやがったな!」
 男は筆談ではなく、大声で私に捲し立てた。使い古してザラついたタオルを耳に入れた時のような、ゴワゴワとした不思議な声だった。
 
 「クソっ、もうどうにもならねえ。おい馬鹿野郎!さっさと失せろっ、もう二度とその面を見せるんじゃねえぞ!」
 そう言われても、ワケが分からぬままの私はその場を離れられずにいたが、ティラノサウルスがギャオッと吠えたのを聞いて我に返り、弾かれたようにその場から走り去った。純然たる恐怖の対象が目の前にいることを、そこでようやく思い出したのだ。
 もつれそうになる足を懸命に動かし、切れる息にも構わず私は走った。方向などでたらめだった。とにかく走り続けていないと、何か恐ろしい目に遭う気がしてならなかった。
 
 気が付くとそこは、「上々堂」の前だった。見知った場所に辿り着いた安堵感から、私はその場にへたり込んだ。通行人は皆私に心配そうな顔こそ向けたものの、声を掛けてくる者はいなかった。心臓が今まで感じたこともないようなスピードで脈打っている。それを落ち着けようと、ゆっくりゆっくりと息を吸って、吐いた。
 しばらくそうしていると少し落ち着いてきたので、私は立ち上がった。時計を見ると、男と会ってから一時間ほどしか経っていなかった。少し辺りを見回してみたが、男の家がどちらの方向にあるのかすら、もう分からなくなってしまっていた。
 
 私は少しふらつきながら歩き始めた。しばらく歩くと「餃子のハルピン」に辿り着いた。当然といった動作で店の扉を開けると、当然といった顔でカウンター席に座り、当然といった声でニラ餃子を頼んだ。そして当然といった口でそれを頬張り、当然といった私でその味に喝采を送った。
  「ハルピン」の餃子は絶品だったが、私にはこれを飼おうなどという発想は浮かんでこなかった。やはり男は狂っていたのだと思う。
 
 
 狂人のことは、私には良く分からない。
 
 
 
だいたいこんな感じでーす。