ならそれでいいです

そろそろ優勝したい

飛行機の手触り

 その飛行機は窓の外で静止していた。

 

 久々の休日だった。今月に入ってからずっと仕事に追われていたので、目覚ましをセットしなくてもいい朝というものがこんなにもありがたいとは思わなかった。前日の夜一人で二日酔いにならない程度の飲酒をして、昼前までのんびりと眠り、目覚めると軽く伸びをしつつ一日の予定を考えながらカーテンを開けた。そこに飛行機がいた。

 それはヘリや軽飛行機などではなく、大型旅客機だった。少し薄汚れて、それでもまだ白の範疇にとどまっている機体の鼻がこの部屋に向けられていた。そして、空中に浮かんだままピタリと止まっている。僕が出張や旅行でよく乗ったことのある機体にも見えるけれど、実際のところ飛行機なんて僕には全て同じに見えるような気もする。機体があまりにも近すぎるから側部に書かれているはずの航空会社のロゴも確認出来ず、この飛行機の身元を推理するのは不可能に思えた。

 なぜ、飛行機なのだろう。なぜ、こんな場所にいるのだろう。都心を少し外れたところにある七階建てマンションの最上階。確かに落ちたらひとたまりもない高さではあるが、飛行機が飛んでいていい高さではない。仮にこの低空飛行には目を瞑ったとして、落ちもせず飛びもせず、ただ止まり続けているのはどういうわけなのだろうか。

 操縦席には誰も座っていないように見える。いやに静かだ。なんだか僕と飛行機の周囲だけが切り取られてしまっているかのような、強烈な違和感。それとも昼間の住宅地なんていうのは、どこもこれぐらい静かなものなのだろうか。自分の家の静けさの度合なんてものについて、僕は今まで考えたことがなかった。

 

 寝起きで少し喉が渇くので、水分を求めてリビングへ向かうことにした。牛乳でも飲んで、少し頭を落ち着けてから飛行機のことを考えようと思った。 

 リビングでは美代が、ノートパソコンの前に座って頭を悩ませていた。元々Webメディアの編集を仕事にしていた彼女は、去年の暮れにフリーライターに転じてからはそのほとんどの時間を家で過ごすようになっていた。

 僕はキッチンの奥にある冷蔵庫を開けて、牛乳パックを取り出した。残りが少ないようだったので、コップに注がずパックから直接喉に流し込んだ。喉の渇きはなくなったけれど、飛行機のことはなにも分からないままだった。

 飛行機が街中で停まっているなんておかしな現象なら、ニュースにでもなっているかもしれない。そう考えた僕はスマートフォンを取り出して、いくつかのニュースサイトを立ち上げてみた。けれど、どのサイトも真っ白いページが表示されるだけで、一向に立ち上がる気配がない。端末か電波のどちらかに不具合が生じているのだろうか。諦めた僕は部屋着のポケットに物言わぬ電話機をしまった。

 

「ねえ、あなた昨日私が寝てからテレビを観た?」

 不意に、美代が僕に尋ねた。

「いいや、観てないよ。昨日は帰ってきたら部屋で少し飲んで、そのまま寝たんだ」

「ふうん。なんだか朝からテレビの調子が悪いのよ。故障かしら」

 最後はほとんど独り言のようにそう言って、美代はまたパソコンと睨み合いを始めた。テレビの不具合にはそこまでの関心は無いようだった。薄く聞こえる鼻歌が、軽快に叩かれるキーボードの音と混ざりあっていく。

 

 離婚が決まってからというもの、美代はすっかり穏やかになった。というよりは、元の穏やかな美代に戻ったという表現が正しいのだろうか。もしかしたら美代も僕に対して同じことを思っているのかもしれない。ここ何年か、僕たちは穏やかではなかった。

 数年間に及ぶ罵り合い、憎み合いを経て、僕たちはすっかり燃え尽きてしまった。だけど、燃え尽きたはずの身体からときどき燻りや煙が見え隠れして、それが僕を困惑させた。

 僕の人間の部分はまだ美代と一緒にいてもいいかもしれないと言っているのだけど、僕の動物の部分はこの雌から得られるだけの愛はもらい尽くしたと言っている。僕らの愛の送受信はとっくにその季節を終えていて、今ではただダシガラになった情が二つ転がっているだけだ。

 その二つが腐ってしまわないうちに別れようというのが、僕と美代の出した結論だった。でも、この問題は二人だけで解決してしまっていいものではない。僕は本棚の上に置かれたぬいぐるみの群れを見た。その中に飛行機のぬいぐるみを見つけると、その背を掴んで持ち上げてやる。もこもことした飛行だか滑空だかが、僕の目線の高さで始まった。確かこれは、三年前家族で僕の実家に帰省したときに乗った飛行機で卓也がもらったものだ。子供用の機内食と一緒に配られていた記憶がある。あの日二時間弱のフライトの間五歳児の退屈を紛らわせてくれたこの一機は、その後すぐに飽きられてこうして今日まで忘れられていた。

 

「卓也は今日もサッカー?」

「ここのところ土日はずっとそうよ。今度低学年の子たちだけの大会があるんですって」

 行けたら観に行こうかな、と口に出そうとして、やめた。小学校の入学式も、この間の運動会も、約束だけして結局行けなかった。平謝りの僕に対して卓也はあまり気にしていないような素振りを見せていたけど、どうしても幼い我が子が無理をしているようにしか見えなかった。無理をさせている僕が言うことではないかもしれないが、優しい子なのだ。その優しさが僕と美代のどちらに似たのかは、まだ幼すぎることもあってよく分からないけれど。

 卓也は、僕らを恨むのだろうか。寂しいと言って泣くのだろうか。それともまた無理をして、なんでもないような顔をするのだろうか。僕はぬいぐるみに顔を近づけて、じっと見つめた。安っぽい水色の布で表現されている客席や操縦席の窓の中は、当然ながら窺い知れない。ある意味それは、僕の部屋の外にいる飛行機を忠実に再現していると言えた。

 

 「ねえ」

 僕は美代に語りかけた。美代はパソコンに向かったまま、「なあに?」と軽い言葉を返してきた。

「僕は良い父親でも、良い夫でも、良い男でもなかったね」

 どうしてこんな言葉が出てくるのか、自分でも分からなかった。ただ、この言葉を紡いでいるとき、僕の脳裏には飛行機の姿が浮かび続けていた。美代はいつの間にか顔を上げて、そして僕の言葉に心底驚いたというような顔を作ったあと、そっと微笑んだ。

 

「ええ、そうね。だけどそんなのお互い様でしょ」

 その表情の優しさに、僕はいろいろなことを思い出した。美代と過ごした時間の中にあった、きらめきや、くすみや、オーロラや、シミといったいろいろを。それから僕と美代の間には確かに愛が、もしくは愛のようなものがあったのだということを、ようやく明確に思い出せたのだった。それはあたたかな回顧だった。

 飛行機のぬいぐるみを元の場所に戻した。「タバコを吸ってくるよ」と言って、自分の部屋の扉を開けた。為すべきことが全て分かったような気分で、嬉しくて嬉しくて仕方がなくなってくる。

 

 部屋の窓からベランダに出て、飛行機に近づいた。その鼻の先端をそっと撫でた。

 それはとてもザラザラしていて、僕の知らない手触りだった。

 

 

 

 

 

 

『ロッタレイン』の第一巻、やっと出ましたね。

ロッタレイン 1 (ビッグコミックススペシャル)

ロッタレイン 1 (ビッグコミックススペシャル)

 

もう「いつ単行本が出るの?」と死ぬほど言いまくってた漫画なんですよ。月刊誌で連載始まってから二年とか経ってて、もう単行本分のストックなんて余裕であるはずなのに単行本出る気配なくて。で、そんなこんなで連載終わるし、なんなら掲載誌のヒバナ自体刊行終わっちゃうし(ほとんどの作品がマンガワン移行なのほんとに悲しい)で。おいおいおいおいって思ってたんですけど、ヒバナ刊行終了のお知らせと同時にひっそり単行本が出ることが告知されててガッツポーズ作りました。

 

序盤の内容を一言で表すと「唯一の肉親だった母親を亡くし、職場でめっちゃパワハラを受けてるバス運転手の男(三十歳)が、パワハラ上司と恋人が浮気している現場を目撃したことをきっかけに頭がバグって職務中に事故を起こし骨折&入院し、その病院にかつて自分と母を捨てた父が現れ、怪我が治るまでという約束で父とその内縁の妻(元浮気相手)が暮らすに新潟の家に身を寄せることになり、その家の中学一年生の娘で勃起する」みたいな感じです。ごめんなさい、俺の一言めっちゃ長いんです。

まあとにかく最悪(褒め言葉です)なんですよ。死ぬほどどん底の状態から始まってそこから再生していく物語なのかなと思ったら、新天地も全然心休まる場所じゃないし。とにかく嫌な方嫌な方に話が転がっていくし。

というかそもそも登場人物に「良い人間」がほとんどいないです。「人間なんて基本自分が可愛くて他人は二の次だし、梅干し見たら唾出てポルノ見たら勃起するでしょ?」みたいなことを丁寧に丁寧に、そして当たりまえのことのよう積み重ねられていくんで、もう読んでるこっちはただただ無抵抗に納得するしかないんですよね。同作者の『甘い水』だとそのへんが結構デフォルメされてた気がするんですが、もうここではひたすら剥きだしです。

 

主人公なんかは特にその象徴みたいな造形で、めちゃくちゃ不幸な目にあってるのに全然応援する気にならないです。

六話の最後とかは特に顕著ですね。物語上とても大きな出来事が起こるんですが、主人公だけがその場の他の人物と全然違う方向を向いてるというか、目の前で起きていることに対してというよりそれによって生じる面倒事への不安とか、あとはその場の空気に対する気まずさとか、そういうものが先にあるということがありありと伝わってくる名シーンです。

 八話で主人公が暴走するんですけど、そことか単純に引きますからね。「なにやってんだこいつ……」みたいな。でもって本来全く共感できないはずなのに、なんだか我がことのように恥ずかしくなってくるみたいな。ほんとになんなんですかねこれ。

 

で、この漫画が凄いのはこんだけ辛くて痛い要素を孕みつつめちゃくちゃ面白いことです。読んでる間ずっと「勘弁してくれ……」って唸ってるような状態なんですが、それでもページ捲る手が止まらなくて。

それは「これからどんだけ最悪になるのか」っていう怖いもの見たさみたいな部分もあるかもしれないんですが、それよりもまず単純に物語の推進力が半端じゃないからなんですよね。あと作者の表現技術・絵の力が本当に凄いです。上述した六話のシーンとかセリフ無しですからね。それ以外にも思わず叫んでしまうようなコマとページがたくさんありました。

それからヒロインの初穂が本当に魅力的です。主人公が勃起するのも分かるな……という場面がいくつもあります。初穂の顔が近すぎる表紙も最初見たときは「近いな……」という感じだったんですが、一巻読み終えた今では「そうなるよな!」という気持ちです。まあそれでも近いことに変わりはないんですけど。

で、その魅力の描き方も本当に絶妙。いやらしくないギリギリのラインなんですよね。最近思春期辺りの男女が低い貞操観念と強い性欲の赴くままにセックスして事後一句読む、みたいな漫画をよく見かけるんですが、そういう漫画とかその漫画の中の一コマをTwitterに貼って「私だ……」とか逆に「いやセックスってこんな大層なもんじゃないでしょ……」とかほざいてる下半身以外の優勝方法を知らないブス(とそのブスにDM送ることと口元隠して自撮りすること以外趣味がないバカ)とかを薙ぎ倒すパワーがあるなと思いました。また戦争仕掛けちゃった。

 

まあとにかくどう転んでも最悪、という感じなんですが果たして物語はどういう展開を迎えるんでしょうか。来月発売の二巻、そして再来月発売の第三巻が待ち遠しくてしょうがないです。

あと作者の過去作がことごとく絶版で入手困難なので、これが爆売れして復刊とかされたら良いのになと思います。 

 

だいたいこんな感じでーす。