ならそれでいいです

そろそろ優勝したい

生活拡大日記

2018年5月11日 午後4時過ぎ

 

 三鷹駅を南口から出てそのまま通りを十分強進んでいくと、やがて目の前には大きな煙突が見えてきました。ここまではほとんど一本道ではあったものの、やはりああして分かりやすい目印があってくれると安心します。この道を通るのは初めてでしたが、あの百メートルほどある円柱には馴染みがありました。あとはもう、ただ真っすぐあれを目指すのみです。夜と昼という勝手の違いはあれど、あの煙突の近くに目的地があることは何度もこの目で確認しているのですから。

 真夜中の散歩が趣味になったのは、高校生のころだったと記憶しています。我ながら少し陰気で笑えてくるような趣味ですが、静まり返った街を大股で闊歩するのは世界の支配者になったようで気分が良いのです。故に、日付が変わって間もない外界にまろびでるこの行為は、週に一度ほどのペースを維持しながら今日に至るまで続いています。

 身分だけが大学生の状態で大学には行っていなかった二十歳のころ、散歩の目的地は牛丼屋でした。僕が当時住んでいた小田急線沿線の小さな駅前には午後十時以降に開いている飲食店がほとんどなく、隣駅とのちょうど中間あたりにある牛丼屋が最寄という有様だったのです。当時の僕は「これは趣味と実益を兼ねたとてもよい行為だな」などとのたまっていましたが、恐らくはまだ「実益」という言葉の意味を正しく理解していなかったのだと思います。いったい誰に利益が発生していたというのでしょうか。

 一昨年住んでいた浅草ではスカイツリーを目的地と定めることがほとんどでした。時折隅田川で営業を終えて休んでいる屋形船を眺めて涼を感じることもありましたが、そもそも単純に大きなものが好きだという脳の構造をしているので、どうしてもあの電波塔に気が向きがちでした。ただ、あまりにも有名すぎるために自分以外の人間と鉢合わせることが多いのが難点とも言えました。真夜中の自分というものは少し独占欲の強いところがあるのかもしれません。

 

 そして煙突です。三鷹に越してきて以来だからそろそろ一年半の付き合いになるこのごく私的なランドマークは、単純なサイズこそスカイツリーには劣りますが、そのくびれすらない真っすぐな円柱の形が醸し出す独特の雰囲気はとても魅力的に感じます。約百メートルのサイズにしたって、間近で天辺まで見上げても首が痛くならないという点においては、むしろ好ましいとさえ言えるでしょう。

 煙突はクリーンプラザふじみというごみ処理施設の一部で、三鷹市調布市のごみを処理した際に発生する煙や臭いへの対応を一手に引き受けています。まあ、なかなかに立派なことだとは思いますが、僕は彼(彼女)の仕事そのものにはあまり興味がありません。やはりその、真っ白な建築物がずどんとそびえ立つ様に心惹かれているのです。

 

 煙突を目指し、どんどん歩を進めていきます。連雀コミュニティセンターを通り過ぎ、集合住宅と小さな公園が織りなす少し入り組んだ道を抜けると、やたらと整備された一角に出ました。曲がりくねっていたこれまでの道と違い、その通りは一直線に伸びていて、さらには発色のよさからアスファルトが若いものであることも分かりました。そしてその延長線上には煙突が座していて、なんだかそのために最近になって誂えられた道のように見えてしまいます。

 もちろんその認識は誤りで、あの煙突がどれだけ立派だろうがそれはただのごみ処理施設に過ぎず、そのために道が造られたり整備されたりすることなどまずないでしょう。実際にその道を歩いてみると幼稚園、小学校、中学校、さらには児童公園までが沿うようにして立ち並んでいたので、この道は元々こういうもので、整備された事実があったとしても生徒たちの安全のために歩道を広げたぐらいがせいぜいだろうと思いました。実際どうなのかは分かりませんし、わざわざ確かめるつもりもありませんが。

 ともかく、その若いアスファルトたちを一通り踏みつけ終わると、抜け出た先には煙突をバックにした大きくて古い建物が現れました。三鷹市役所です。市役所はクリーンプラザふじみとほぼ隣接するような形になっているので、ここに辿り着くためには煙突を目印にするのが手ごろだったというわけです。

 ただ、今回の目的地は市役所ではありません。少し西に行ったところにある図書館を目指して、僕はここまで約三十分ほどもえっちらおっちら歩いてきたのです。なので身体を右に向け、そこからまた少しえっちらおっちらと歩きはじめました。

 

 僕は図書館という場所や言葉に、そこまで特別な思い入れを持ってはいません。小学生のときに学習漫画シリーズを読破したり、中学生のときに気になっていた女子と図書委員で一緒になってドギマギしたりといったことはありましたが、まあそれぐらいの、ごくごく平凡なものです。事実かの場所からは足が遠のいて久しく、図書館という場所に行くのがいつぶりなのか、自分でもよく思い出せませんでした。

 では何故そんな場所に足を運ぶ気になったのか。それは一言で表すと「『透明』について調べてみたくなったから」です。これを聞いた人間はほぼ全員が「なにを言っているんだ」と思うことでしょう。正直なところ、僕にもよく分かりません。でも事実なのでしかたがないのです。せめて自分の中にだけでも筋が通るように、少し考えてみることにしましょう。

 

「透明」という言葉について、僕は少し特別な思いを抱いている節があります。少なくとも「図書館」よりはずっとそうなはずです。

「透明」という言葉に対して浮かぶイメージは主に二つあります。一つは美しさ。これは単純で、字面の印象から少し連想しただけだと言ってもいいでしょう。それからもう一つは危うさです。透明であるものはふと目を離した隙に消えてしまうような、そしてそのことにもしばらく気が付けないような、そんな気がしてしまうのです。

 僕が人生で出会った中で最も大事なバンドであるイールズセカンドアルバム「エレクトロ・ショック・ブルース」を例に挙げてみましょう。マーク・オリヴァー・エヴァレット の個人的な悲しみを出発点とした楽曲の数々は、全編に渡って途切れそうなほどに弱々しいものの、その一方でひたすら一点を見つめ続けているかのような力強さも併せ持っています。これは僕の基準ではこの上なく透明なレコードです。

 

 漫画にしたって小説にしたってそうです。独自の美しさと危うさが絡み合いながら放つ魅力はジャンルを問いません。売野機子先生の漫画はこのどちらの要素をも非常に強く含んでいて、それがもっとも鮮やかに表出しているのが人物の眼の輝きなのではないでしょうか。これもとても透明なものであると言えると思います。

 僕が好ましいと思う人間にも、老若男女問わずそういった傾向が見られます。なにも見た目や性格が美しい人間が好きというわけではなく、むしろ歪なある意味人間臭い人物の中に見えるそういった部分に魅力を感じがちです。それは無邪気さや儚さといった言葉で表すことも出来るかもしれませんし、少し角度を変えれば愚かさと言えなくもないかもしれません。ですがこれを表す言葉もまた、話者が僕の場合は「透明」となってしまうのです。

 

 さて、ここまで述べてきたような僕の感覚レベルの話を、本来「透明」という言葉がそれ一つでカバー出来るものなのでしょうか。答えはノーです。この言葉は別に僕のために作られたものではありません。

 僕は「透明」という言葉に対して意味を拡大解釈するだけでは飽き足らず、勝手に新しい意味を付け加えるような狼藉を働いているのです。ではいったいなぜそうなってしまったのでしょうか。いったいなにが、僕の「透明」を歪に膨らませてしまったのでしょうか。ここまで述べた音楽や漫画や人物と「透明」との連結は、半ば無意識のうちに行われています。ですがきっとこの変質にはきっかけがあったはずなのです。

 試しに昨晩インターネット検索サイトに「透明」と打ち込んでみたところ「《名ノナ》光がその物質をよく通り、すきとおって見えること。「―なガラス」「無色―」「半―」。比喩的に、物事(が隠されず、そ)の見通しが明らかに分かること。」と辞書引きこそしてくれたものの、求めていた答えは返ってきませんでした。なので僕はそのまま「透明」の文字にバックスペースを二回打ち込んで、「三鷹 図書館」と書き換えました。

 

 つまり僕は、自身の持つ辞書の「透明」の項目がいつ、誰に(何に)よって、どのように書き換えられたのかを知る(思い出す)ためのヒントを図書館に求めたというわけです。

 こうした一つの言葉に対する認識のずれのようなものが発生することはなんら珍しいことではないし、それについて論じた書籍も恐らくは複数ある。最悪自分のケースについて完全に当てはまる解答が見つからなくても、それと似た類の記載は簡単に見つかるだろう。と僕は考えました。

 そして調べものをするなら図書館、というのは少し安直な気もしますが、しかし闇雲にネットの海を捜索するよりも眼前の本の群れから手当たり次第読み漁るほうが今回の場合は答えに近そうに思えたのです。

 

 かなり話が逸れましたが、かくして僕は三鷹市立図書館の本館に辿り着きました。

(たぶん言語感覚とかそういうのの類を当たるのがいいんだろうな。言語感覚は大きく三つに分けられるって昔なにかで読んだっけ。なにで読んだのかも、その三つがなんなのかも覚えていないけど)

 そんなことを考えながら。

 

 

続きます